おはようございます、ちょっと小さいおじさんです。
今朝は雨です。
昨日まではあんなに晴れていたのに、急に雨になってびっくりしちゃうよ。
さて。
そんな気だるい朝。
こんな時は昔話でも書きましょうか。
この前どこまで書いたっけ?
そうだ、このままこの地域の中学に入ると元の小学校の生徒と一緒になるから別の中学校を目指す、というところまでだった。
そもそもこれについて。
正確に言えば、居住する学区の中学は昔からあまり考えていなかった。
そもそもおじさんが中学受験組なのでそこは普通の考えだった。
となると私立中学への進学となるワケだが、こんな学力ではそれも難しいと思ってた。
学力どころか日常生活、特に対人関係でさえうまくいかないのにそれはどうなんだろと。
支援級で手厚いケアをしてもらえる公立中学がふさわしいのではないかと。
でも元の彼らと一緒の中学かぁ、と悩んでた。
ところが調べてみると私立でもそういう児童を受け入れてくれるところがあった。
そういったところにするか、どうするのか。
ちょっと悩んだ時期があった。
でもとにかく前向きに勉強だけは進めることにした。
そもそも学校へ行ってない。
家で学校から送られてくる宿題のような課題のようなものをこなす。
配布された教科書をひとりで読む。
そんなつまらない日々が続いていたころ、中学校を本気で考え進学塾へ通うことにした。
いくつもある進学塾のうち決めたのは四谷大塚だった。
全く迷いもせず、そこに決めた。
一度目の入塾試験は落ちた。
圧倒的な学力不足だった。
二度目の挑戦で息子はおじさんの後輩となった。
おじさんが小学生のころ、四谷大塚は絶対的な存在だった。
四谷大塚と日能研、あとは群雄割拠といった時代。
四谷大塚に入るための塾、その塾に入るための塾があったそんな時代。
サピックスなんて無かった(ような記憶)。
そんな父親の一方的な考えでそこへ入れた。
九九が覚えられず、計算が遅く、同年代が習う漢字も書けず。
そんな息子だったがギリギリの成績で入塾。
もとろんクラスは最下層。
ようやく動き出した。
毎週あるテストはそりゃヒドいものだった。
塾のテキストとそのテストの答案を対比する限り、息子は授業を理解できていないようだった。
「このままではどうにもならないゾ」
のんきな本人より親が慌てた。
本気で勉強を教えることにした。
不思議なもので昔やったことを忘れないでいた。
例えば算数の問題なぞは解の導き方はそのまま変わっていなかった。
問題も見たことあるものが多かった。
ある意味当たり前なのかもしれない。
でも40年以上前のことがそのままであることに軽く衝撃だった。
だから教えるのは難しいことではなかった。
大人の使うテクニックを使って教えるのではなく、小学生の解き方で教えることができた。
それが良かったのかもしれない。
ものすごく時間がかかったけど、少しずつクラスを上げていった。
そしていつしか校舎の最高位のクラスにまで到達した。
国語や理科は足を引っぱっていたけど、算数と社会が稼ぎ頭だった。
やはり理科は実験系やフィールド系の問題はまるでダメだった。
やはり触れてナンボの教科なんだろう。
学校へ行っていない弊害が露骨に出ていた。
これは今でも引きずっている。
もう受験まで一年も無くなったころ。
多くの生徒は一段ギアを上げていくような時期。
息子は相変わらず高低差のある成績。
このころ、できない問題があると自傷行為を繰り返していた。
自分で髪の毛をつかんで引き抜いたり、泣きながら頭を自分で殴ったり。
奇行も目立っていた。
両手に鉛筆を持ち、それをクルクル回しながらぶつけ合う。
彼の脳内で右手と左手が戦っているようだった。
まぁこれは昔からの奇行だけどそれが強くなってきたような気がした。
※コレ、今でもたまに出てくるときがある。本人に言うとすごくイヤがる。
それでもようやく試験の結果が伴ってきた。
電気ショック療法でもやったのかってくらい急に良くなった、というのが印象。
四谷大塚の各校舎の成績上位者が集まる合宿にも行くようになった。
小学生が腕試しする大規模の模試でもいい結果が出るようになってきた。
通ってもいない二つの塾で特待生になり、教材などが無料でドンドン送られてきた。
塾も実績が欲しいのだろう、生徒獲得のために勧誘がすごかった。
だから多くのモノやサービスが無料になった。
この点は親孝行だった。
いよいよ冬になって、ようやく志望校を決める段になった。
そしてやっと志望校が決まった。
きっと誰よりも遅かっただろう。
学校別の対策にはもうほとんど時間が残っていなかった。
この続きはまた今度、気がむいたら書こうかな。
こんな雨の日があったら。
それでは今日もスリップ事故に気を付けて。
では!